昭和44年05月27日 夜の御理解
大きな信心をさせてもらわないかん。それは言い換えると「馬鹿と阿呆で道を開け」と仰る様な底の抜けたような 有り難うを私は大きな信心だと思う。けれでもその「馬鹿と阿呆で道を開け」という事は、まぁどういう事があっても障らないという程しに大きな訳ですけれども、それかというて小さい神経を持ってしませんと、もうしみじみにある喜びとか信心を キャッチする事がする事が出来ん。小さいもうそれこそ針が落ちてもハッと気付くような信心。針の落ちた音を聞いても気がつくような信心。
ささいな事の中にも喜びが沸いて来る。感動が沸くといったような信心。そういう信心というなら、反比例しておるようにあるけれども決してそうじゃない。そこんところをね、あの良くわきまえていかなきゃならん。大ぉきな信心、大ぉきなおかげを頂く為としても、大きな心にならなきゃいけない。大きな心というのはどのような事があっても 例えば苦しい事があっても、それが平気でおれれる。それを馬鹿と阿呆でとこういわれるね。暑さ寒さも感じんぐらいの信心大きな信心。
と言うてその大きな信心の内容と言うのはね、小さい神経がなからなきゃいけない。だから普通でいう馬鹿と阿呆ではない事が分かる。それこそ針が落ちても、その音に心の中に響きを感ずるような信心。又はどのような喜びでもどのようなささいな事でも、それをキャッチし得る様な信心。そういう信心を頂かなきゃいけません。今日は私は最近はまぁ晩はもうお茶粥さんばっかりだが、私もこりゃ不思議、不思議なんですけども、お茶粥さんときだけは特別有りがたい。感動を受けることだけは間違いないです。
もう実に実に有り難い。もう一番初めから一番最後までおいしいのであり、有り難いのであり勿体無いのである。もうですから醤油一滴でも、もう私がお茶粥さん頂いた時のおちゃわん見てご覧なさい。それこそもうそれこそお茶のお手前終わった時のような感じですよ。普通でいうたら私はお粥さんに、たとえばいっちょうなんか何だっでしょうかね。まぁいうなら山菜料理のような、まぁいわば粗末な食べ物であったけれども、しかもそのうお粥さんですけれども。
それが有り難うて堪えんというような、そういうところに有り難さを感じれず、キャッチしえれる心が心の中にいつも用意されるという事。かというて「さぁ先生どうしましょうか」と本当に目の前が真っ暗になるような事柄と、いった様な場合であってもね、ほんとそれをひとっつもそのう障らない心。ですからその二つが信心の心の中にゃ同居しとらなければいけない。大きいなちゅうてこのう大きな心で、まぁ平気でおれれるとという事は、まぁ「泰然自若」しておれる事なんだけれども。
それが場合によっては横着な時があるね。そういう様なものであってはならない。どこまでも神様のはたらきを信じ切ってからの安心、ゆとりでなからにゃならん。それが大きな心。そこへ「大きな信心には、行きずまりがない」と言われますが、大きな信心には決して行きずまりがないね。やっぱそこんところをまぁ信心は「火にも焼けなければ、水にも流されない」というのであるけれどもです、それをここではまぁ大きな信心と。全然障らないどのような場合であっても障らない。それを大きな心。
しかも底が抜けたような信心。それはどういう事かと言うと、いわゆる「馬鹿と阿呆で道を開け」と言われておる。ならその馬鹿と阿呆で道を開けという、その何にも引っ掛かる事の無いような大きな心の内容にはね、それこそ張りが落ちて、その針の落ちた音にもハッと思わして頂く様な神経、例えばお気付けである場合なんかは、ハッとそれがお気付けであると気付かして貰い、それがどんな些細な事であっても神様のはたらきを思うたら、いわば感動しなければおられない。
有り難いと思わず口をついて出る有り難たさというものが、キャッチ出来れるためには、そういう神経も必要であると言うところにね、信心のまぁいうなら霊妙不可思議さというものがあると私は思う。大きゅならにゃ大きゅならにゃという事は、又は本当に小さい事にもですね、心を配らして頂く神経。お掃除をさせて頂くなら、隅から隅まで行き届くと言うかね、例えばお三方が一分一厘こうよがんどってももう御神前に向かう気がしないといったような神経。
そういう神経が育ちながら、いわゆる大きな心が育っていくと、そういうものが相俟ってn、育っていくものでならなければ、私は本当の信心とは言えないね。よかよか主義。まぁどげな事があっても、よかよか主義でいったんじゃね、それはいかにも一見それは、まぁ本当に底が抜けて、大きな心の人のようにあるけれどもね、それだけではね隅々にあるというか。それはそこに感じなければならない有り難さでも、感じきらずにしまわなければならん。
ですからとにかく有り難いという心をキャッチするのは、小さい信心ね。大きなおかげを頂く為には大きな心。それは暑い寒いを感じんぐらいな、いわば心それを大きな心。まぁあそこの両面が相俟って行けれるようなねおかげ。そういう信心が果たして育って行きよるだろうか。それとは反対にそれこそ小さい事にくよくよする。そういう人に限ってその、神様の大きなお気付けなんかは平気でおる。横柄と言わなければしょうがない。そういう信心では、おかげを頂けるはずがないですね。
どうぞ。